小泉次大夫は、約400年前、徳川家康が天下をとり、江戸に在住するようになったころ、その家康の命を受けて多摩川の両岸に農業用水を作った人です。東京側を六郷用水、川崎側を二ヶ領用水と云います。十四年間にわたる大工事は1611年に完成し、このとき次大夫は74歳でした。二ヶ領用水によって灌漑設備が整った水田面積は1876町歩に及んだと云われています。ですから小泉次大夫は川崎を興した人と云っても過言ではありません。さて、妙遠寺の開基は、川崎の大恩人である小泉次大夫です。次大夫は二ヶ領用水工事のための拠点を小杉村の小杉陣屋にとりました。慶長六年(1601年)代官に任命された次大夫は、付近の廃寺になっていた寺院を再興して「妙泉寺」と名付けました。慶長十七年大御所家康と秀忠が鷹狩りのために小杉を訪れます。この時家康の接待にふさわしい僧侶を安房保田(千葉鋸南町)にある日蓮宗本山の中谷山妙本寺より連中房日純が招請されました。日純はのちに秀忠の命により川崎宿砂子に寺院を与えられ妙泉寺の本堂をこの地に引き移して、長継山妙遠寺を建立することになりました。昭和二十七年、区画整理により、宮前町の現在地に移転いたしました。